千年祀り唄
―無垢編―


6 狗尾草


風は季節を巡り、再び無垢のもとに戻って来た。
青く澄んだ空。
流れ行く雲。
ゆったりと揺れる細い草の葉の影。

無垢はたった今、手元にいた最後のもっこを人間の女に託したところだった。
(幸せにおなり)
そうして、無垢は一人、切株に腰を下ろして、風を見ていた。

膝丈ほどの草の間から白い小花が覗く。
稲穂のように並んだ雑草の群れ。その膨らんだ穂が犬の尾のように揺れている。

「そうだ。新たなもっこ達を呼ぶまえに、水を汲んでおこう」
無垢は立ち上がると、お堂に向かって歩き始めた。その時、不意に視界の先で何かが動いた。風に混じって低い唸り声も聞こえる。

「妖か?」
白い小さな生き物が草の間から見え隠れした。
「誰だ? そこで何をしている? 姿を表せ!」
無垢は表情を強張らせた。そこは結界の内側である。もし、侵入したのが妖であれば大変なことだ。妖はもっこを食らう。今はたまたま、もっこ達がいない状態だったが、もし、その結界を破ることができる妖がいるとすれば、取り返しのつかないことになる。そんな敵の侵入を許す訳にはいかなかった。
「ううっ……!」
再び唸り声が聞こえた。無垢は草を掻き分けると、その正体を確かめた。

「犬」
草の中に蹲っていたのは小さな白い子犬だった。犬は一瞬だけ威嚇するように小さく吠えた。が、痩せた体を支え切れず、その場に倒れ込んだ。薄い桃色の舌を出し、虚ろな目で無垢を見上げる。

「おまえは……弱っていたのか。病気か? それとも……」
無垢は腰から丈筒を取ると、そっと手のひらにあけ、犬の口元に近づけた。水は僅かしかなかったが、犬はうれしそうにそれを舐めた。
「待っておいで。もっと汲んで来てやろう」
無垢はそう言うと急いでそこを離れた。


お堂の脇には、僧都があった。無垢はその水を柄杓に汲んで筒に入れた。お堂の前には柏の葉に乗せられた団子が二つ供えられていた。無垢はそれを下げると犬がいた草原へと引き返した。


「おーい、何処だ?」
犬の姿がなかった。代わりに揺れているのは狗尾草の群れ……。
「おーい、しろ! 何処だ?」
無垢は咄嗟にそう呼んだ。それが白い毛の犬だったからだ。もっこは一人一人の名前をもたなかったが、犬に名前を付けるのは悪くないだろうと無垢は考えた。
それに、その犬は元気になればここから出て行く。結界の中で獣を飼うことはできないからだ。

「出ておいで、しろ。水を汲んで来たから……。それに食べ物も持って来た」
すると、言葉が通じたかのように、草の間から子犬が顔を覗かせた。
「そこにいたのか。さあ、水だ。お飲み」
無垢は、しっかりとした柏の葉に水を注いだ。犬はしっぽを振るとその水を飲み始めた。
「食べる物はこれしかないが、お食べ」
無垢はそこに団子を置いた。犬はくんくんとにおいをかぐと、くしゅんと一つくしゃみをした。

「おまえには食べれぬか?」
犬は団子に向かって唸ったり吠えたりした。無垢はそれを小さくちぎると犬の前に近づけた。犬はじっと団子と無垢とを見比べていたが、もう一度においをかいで、それからがぶりと噛みついた。それから、がつがつとそれを食べ始める。
「もっと食べるか?」
無垢は別の団子をまた小さくちぎって犬の前に置いた。それから、柏の葉に水を注ぐ。

「腹が減っておったのか」
無垢は揺れる犬の尾を見て微笑した。
「これで全部だ。さあ、元気になったのならお行き」
団子をたいらげて、すっかり満足している犬に、無垢は言った。
「お行き」
無垢はその犬を村の方へ追いたてた。
「いい人に拾ってもらうんだよ」
走り去る犬。その尾と呼応するように狗尾草が揺れている。
無垢は草の穂にそっと触れてみた。やさしく温かい感触がした。

(草の葉一本生えてなかった……)
「あの頃は……」
水も食料にも事欠いていた村では動物を養う余裕などなかった。
そんな記憶がふっと頭の隅に過った。
(だが、もうそれも昔のことだ……)
「ずっと昔の……」

しかし、それが何を意味しているのか、そこでいったい何が起こったのか。彼は思い出すことができなかった。
記憶はずっと閉ざされて、無垢は無垢としての役割を果たし、いつまでも霧の向こうを旅している。


「おいで」
無垢は細い植物の茎に液体を浸し、新たな命を受け入れた。一つ、二つ、三つ……。今日は七つの魂が無垢の元にやって来た。

――ここはどこ?
――おまえ、だれ?
もっこが眩しそうに目をこすりながら訊いた。
「おれは無垢だ。おまえ達が現世に生まれるまでの間、一緒に旅をする」
――むく?
――むくといっしょ
もっこは光の被膜に包まれていた。透ける球状のゆりかごに乗って、もっこは宙を移動したり、二つ三つの幼児の姿で草原を駆け回ったりした。

――これはなに?
もっこの一人が指をさす。
「草だよ。緑の草原におれ達はいる。いろんな形の葉があるだろう」
――あはは。これ、くすぐったい!
もっこの一人が草の穂に触れて笑う。
「それは狗尾草だよ。かわいいだろう?」
――えのころぐさ?
――ふわふわしてる
――いっぱいあるね
「ああ。たくさんあるときれいだろう」

――たくさんある
――きれいだね
――あそこにもあるよ
もっこの一人が指を差す。
「え?」
――ほら、あそこ
――おおきいの

緑の穂の間で揺れている白い尾。
それには見覚えがあった。
「里へ行かなかったのか」
それはしろだった。子犬はうれしそうに尾を振ると、真っ直ぐ無垢を目指して駆けて来た。

――うごいた!
――こっちへくる
――こわいよ
――いろがちがうよ
――みどりじゃないよ
――どうして?
もっこ達が騒ぐ。

「あれは狗尾草じゃないよ。犬だ」
――いぬ?
――いぬってなあに?
――さわってもへいき?
「ああ……」
無垢に纏わり付いていた犬に近づいてもっこ達が次々と手を出した。

――あったかい
――ふわふわしてる
――うごいてる
揺れる尾を掴もうと、もっこの一人が子犬の周りを飛び回った。
また別のもっこは犬の耳を強く握って引っ張った。
「きゃうん」
子犬が鳴いた。もっこ達は驚いて、一斉にうしろへ飛び退いた。耳を掴んでいたもっこと尾を握ったもっこがそのままの状態で固まっている。

「大丈夫だよ。さあ、そっと手を放して」
無垢が言った。
――かみつかない?
――おこってない?
二人のもっこが恐る恐る訊く。
「ああ。犬は子どもが好きだから……。なあ、しろ。おまえだって急に触られて驚いただけだろう?」
無垢はそっと犬の頭を撫でて言った。しろはくうんと鳴いて鼻を近づけた。

「ほうら、よしよし」
無垢が笑うともっこ達も笑い出した。
――あはは。ほんとだ
――おこってないね
――なら、あそぼう!
たちまち、もっこ達は小さな犬の背によじ登ったり、耳や口の中に手を突っ込んだりした。しかし、しろはされるがままになっていた。相手が子どもだと思って耐えているのだ。

「しろ、おまえはどうして戻って来た?」
無垢が訊いた。だが、しろは答えずに、うれしそうに尾を振って、もっこ達といつまでも戯れていた。
「言っただろう。おまえをここに置いてやる訳には行かないんだ」
無垢が言った。
「ここはあの世でもこの世でもない領域。現世で生きるおまえをおいてやる訳にはいかぬのだ」

しかし、もっこ達と犬はすっかり仲良くなっていた。
――いぬがわらった
――さわるときもちいいよ
――ここにおこうよ
――かわいいよ
それは無垢とて同じ気持ちだった。触れても平気なのは、この犬はまだ子どもで邪気がないからだ。

「でもね、ここにはしろにやる餌がないんだ」
――しろ?
「この犬の名だ」
――しろにやるえさがないの?
――えさってなあに?
「食べ物のことだよ」
――あたしたちもたべる?
――むくもえさをたべる?

「おれは食べない。それに、おまえ達も……。でも、生まれたら乳を飲んで、歯が生えたら食べ物を食べる」
――えさを?
「ちがう。米や野菜や獣の肉を……」
――どうしてたべるの?
――たべなかったらどうなるの?
「人は食べないと生きてはいけないから……」
――いきていけないの?
「そうだ」

――いきていけなかったらどうなるの?
「それは……また、ここへ戻って来るということだ」
――それじゃあ、いっしょだね
――たべなくてもいっしょだ
「ちがうよ。食べることは大切だ。いろんな味を覚えなきゃ……甘いとか塩辛いとか、酸っぱいとか……」
――あまいの?
――すっぱいの?
――それっていいこと?
無垢が頷く。

「現世には、おいしい物がたくさんあるよ」
――おいしいってなあに?
――これもおいしい?
一人のもっこがしろを指す。
「犬は食べられないよ」
無垢は言った。が、その瞬間、鋭い棘のようなものが男の胸に突き刺さった。

――もう村には食料がねえだ

犬も猫も鳥も、虫さえも……みんないなくなった。
荒れた畑にはただ土と石だけが転がっている。そんな光景が頭に浮かんだ。
(あれは何だったんだろう)
血走った人間の目にさらされて、床に横たわった赤い肉……。

「きゃん!」
もっこが犬に噛みついた。
「おやめ」
無垢が慌てて引き離す。
――いやだ!いやだよ。もっとあそぶ!
もっこ達は興奮していた。

「しろはもう疲れたって……。遊ぶなら、向こうでもっと楽しいことをしよう」
――たのしいこと?
――それってなあに?
「鬼ごっこ。それに石蹴りや数え唄も教えてやろう」
――ほんと?
――それなら、やろう!
――はやくいこう!
もっこ達は丸い気胞に包まれたまま、ふわりと宙を飛んで無垢を追い越して行った。

「さあ、しろ、おまえはもう人里へお帰り」
無垢はそう言ったが、犬はもっこ達のあとを追って走り出した。
「しろ!」
毛並みのいい長い尾を振りながら……。

犬はもっこ達のいい遊び相手になった。しかし、いつまでもここに置く訳にはいかない。
「さてと、どうしたものか」
そう声に出して言ったものの、無垢は、しろを無下に追い出そうとはしなかった。


夜。遊び疲れたもっこ達は、一塊になって眠った。その真ん中でしろもまるくなって眠っている。
「ここが気に入ったのか?」
無垢は眠る犬の背をそっと撫でた。
「ここにはおまえにやる食料もないというに……」

結界の中で血を流すことは禁忌だった。何よりも汚れを意味することだからだ。獣を狩ることもそれを食することも同様である。無垢ももっこも、決して汚れてはならない存在だからだ。

月の光に照らされて、もっこ達の被膜に反射する。やさしく脆い、赤子の魂。そのもっこ達を守るのが無垢の仕事だった。
この世では長く生きることができなかった童達。そんな哀れな魂を誘い、遊ばせながら、彼は再び現世へと繋ぐ儀式を行う。

ねんねんころりの夜が来て
狐も眠るよ 森の中
思い出かたかた糸紡ぐ
明かりを灯した母の手に
そっと抱かれて寝た夜に
聞こえた微かな笛の音

ねんねんころりの月の夜
この子も眠るよ 夢の中
思い出回して糸紡ぐ
広くて大きな父の背で
星を数えて寝た夜に
聞こえた微かな虫の声

ねんねんころりの細い道
生まれる前に聞いた唄
ねんねんころりの闇の中
幸せ数えた夢の中
次には何処へ生まれても
指の数だけ幸福を
数えて眠る 月の夜

ねんねんころりの夢の中
ねんねんころり ねんころり
勿忘草の葉の露に
現世を宿してねんころり

無垢は子守唄を唄う。
ねんねんころり ねんころり

もっこ達が無垢と過ごす時間は短かった。それでも彼はもっこ達を愛おしんだ。
「みんな幸せにおなり」
そう願わずにはいられなかった。いつの世でも、戦や流行り病や天災が起きれば、真っ先に犠牲になるのは子ども達なのだ。
誰もが幸福になるなどというのは幻想でしかない。
(そんなことはわかっている)

――正吉は連れて逝かれた。大人達に……!

それでも彼は、願わずにはいられなかった。
(誰も死なせたくない。そして、不幸にさせたくない。そんな方法がわかれば……)
彼はもっこ達を順番に撫でた。
「幸せにおなり……」
瞳の奥で、闇に咽ぶ霧が流れて行った。

――むくはねないの?
末のもっこが目を覚ます。
「ああ。おれが起きているからね。安心しておやすみ」

ねんねんころり ねんころり
梟鳴いてる森の中
淋しい子狐 顔埋め
母に抱かれて夢の中

――ねむれない
もっこが言った。無垢はそのもっこを片腕に抱えると月を見上げた。
「ごらん。お月様がこっちを見てる」
――おつきさま?
「ああ。季節が巡り、どんなに月日が流れても、月は地上のおれ達を見下ろしている。泣いたり笑ったり、喧嘩をしたりする滑稽な地上の者達を……。まるで幻燈の光に映し出された影絵のように……。月から見たら、それは少し歪んで見えるかもしれないね」

――よくわからない
「わからなくていいんだ。でも、いつか現世に生まれ、辛いことや悲しいことがあった時、あの月におまえの心を映してごらん。正直な心を見せたなら、月はきっとおまえの心に答えてくれる」

――むくもそうしたの?
「ああ……」
――それで、どうなったの?
「おれは……おれ自身としてここにいる。だから、おまえも己の心に正直になれ。他の何者でもない、おまえ自身に……。さすれば必ずそれが真実になる」
――わかった
もっこは頷いて、一つあくびをした。
「おやすみ」

無垢は眠ってしまったもっこを、みんなのところに返すと、少し離れた切株に腰を下ろした。
――むくもそうしたの?
もっこの言葉を思い出す。
――それで、どうなったの?
(おれは、無垢となってここにいる。昔、人間だった時の記憶は消えて……)
それでよかったのだと思う。しかし、時折は少し悲しくも思うのだ。
(おれは、あの月の光のように……。存在するのにそこにない。誰の目にも触れず、人でない者として命の領域で生きる。目に見えない。存在のない。真実でない。―無―そのものとして……)

――無――

風に靡いて狗尾草が揺れている。
刀の鈴が、微かに鳴った。

淋しい子狐 顔を埋め
母に抱かれて夢の中……

無垢は温かな毛並みを思って、そっと草の穂に振れた。
(人は皆、生まれる時は独り。そして、死んで逝く時もまた独りだ。忘れられて、本当に淋しかったのは、おれ自身の心だったのかもしれぬな)

男の足元で白い子犬が纏わった。
「しろ……。おまえも淋しいのか?」
犬は何も答えずに、黙って無垢の傍から駆け去った。

ねんねんころり ねんころり
暗い空に星が瞬き、欠けた月にもっこ達の夢が映し出される。

ねんねんころり ねんころり
無垢が唄う子守唄。

月の光はうっすらと緑掛かって男を照らす。
その横顔を見上げる黒い瞳。

狗尾草の群れの中。
無垢に名付けられた犬は、白い尾を揺らしながら、草の穂の揺れる先を飽きもせずにいつまでも見つめていた。